大正琴とは

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大正琴の由来・歴史

紅白歌合戦やイカ天バンド等でも度々登場していた大正琴は、愛知県で生まれた日本初の国産西洋音階楽器です。

大正元年(1912年)9月9日、大正琴は森田吾郎の手によって発表されました。

森田吾郎(本名:川口仁三郎)は名古屋市大須の森田屋旅館の息子として生まれました。自身で明笛(みんてき:中国の横笛の一つ)や一弦琴、二弦琴を奏で、
その明笛一本を携(たずさ)え、明治32年にはニューヨーク・ロンドン・フランス・インド・香港・上海など約1年かけて世界行脚へでます。
そこで日本と海外での音楽文化の違いに衝撃を受けたようです。日本に戻り子供達や当時の人達にもっと音楽に触れて欲しい、
特に西洋の音楽との接点の一つとして西洋音階を奏でる事の出来る楽器を、ピアノやオルガンの代わりとなるものをと考えました。

「高価なピアノに変わる、安価で洋楽の復習が出来る楽器を作ろう」

その想いが、大正琴の原点となったのです。

森田は二弦琴にタイプライターのキーを取り付けたこの楽器を「菊水」の紋様に似せ、また9月9日の重陽(菊)の節句に準(なぞら)え「菊琴」と命名したのですが、
大正元年に発表・発売されたので親しみをこめ「大正琴」と呼ばれました。

爆発的なブームの後、大きな二つの大戦を経験し大正琴の流れはメインストリームからは影を潜める事になりまが、戦後昭和35年、
古賀政男と村田英雄の『人生劇場』で大正琴をレコーディングに使われると、再びブームが訪れます。

そして昭和50年を挟み、各流派・大正琴協会が創設されると3度目のブームが到来します。
現在は、全国で100万人の愛好家と100を超える流派・会が存在すると言われています。また楽器も多くのデザインや特徴を持つようになりました。

琴伝流大正琴の形状

森田吾郎による発明当初の大正琴は、弦2本の二弦琴にタイプライターのキーを組み合わせたものでした。

現在は弦の材質もスチール(鉄)へと変わり、数も5~7本へと増え、楽器の種類・音域も四声コーラスと同じくソプラノ・アルト・テナー(テノール)・ベース(バス)も作られています。
また各流派がそれぞれ楽器メーカーとの提携を基本としていて、それに伴い、流派ごとの特徴と楽器の個性も枝分かれしていきました。

流派を問わない大正琴の特徴は、鍵盤に数字を配し、楽譜も数字で音階を表す「数字譜」を用いることです。
数字譜は通常の楽譜よりも読みやすく、鍵盤に対する抵抗がある方でも、演奏しやすい楽器といえます。

またプラスティックや鼈甲の「ピック(指爪)」を用い弦を鳴らすことから「和琴」より「テーブルに置くギター」の方がイメージとしては分かりやすく、
実際、ギターと同じ原理のマイク(ピックアップ)を使用し、演奏会ではアンプ(スピーカー)を用いるのが常用となっています。

私達の琴伝流は『すべてのメロディを大正琴で』という考えに基づいて4パートでの演奏を目指し、
他流派の多くが「ソ」の音を最低音とする中で唯一「レ」の音まで下げたベースを使い、演奏表現の幅を広げてきました。
また、右手の動きを安定させる為のプレートを採用しています。

独特の演奏方法

大正琴は発案者の森田吾郎から直接指導を受けた会(流派)が存在しません。
楽器としての誕生以来、大正琴を演奏する各会(流派)は独自の工夫とアイデアでそれぞれ独特の演奏スタイルを確立していきました。

基本は左手で楽譜上の数字と同じ鍵盤を押さえ、右手に持つピック(指爪)で複数弦(1~5本)を同時に鳴らす単音楽器として演奏します。

私達が所属する琴伝流では「自分達で完結する演奏を」と他流派ではあまり主流ではなかった歌(メロディ)だけでなく、
前・間・後奏も、また音域の違う「パート」もいち早く取り組み、高音域を受け持つ「ソプラノ」から「アルト」、「テナー」、
そして低音を受け持つ「ベース」までの4つの楽器を発表・発売してきました。

また弦を細かく刻む「トレモロ」奏法や、リズムを理解しやすくするだけでなく伴奏としても効果的な「送り弾き(返し弾き)」も演奏方法として指導しています。

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琴伝流大正琴 弦洲会(げんしゅうかい)

〒485-0804 
愛知県小牧市池ノ内503番地

TEL:0568-79-3669 
FAX:0568-79-3887

琴伝流大正琴

熱砂

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